TL

疎行列の格納形式と演算

偏微分方程式や大規模線形代数を密行列のまま扱うと破綻する理由と、CSR/CSC/COOで何がどれだけ削減できるかが分かります。

応用HPC数値線形代数疎行列SpMVメモリ帯域最終更新: 2026-06-21
TL;DR要点だけ先に
  • 1.疎行列はゼロ要素を格納せず、非ゼロ値と位置情報だけを保持することでメモリをO(n²)からO(nnz)へ削減します。
  • 2.CSR/CSC/COOは非ゼロの並べ方が異なり、行アクセス・列アクセス・構築のしやすさでそれぞれ得意分野が分かれます。
  • 3.疎行列ベクトル積(SpMV)は演算密度が低く、ほぼ確実にメモリ帯域律速でありキャッシュ効率が性能を支配します。

なぜ疎行列を専用形式で持つのか

有限要素法・有限差分法で偏微分方程式を離散化すると、係数行列はほぼ必ず疎行列(sparse matrix)になります。ある格子点・ある自由度が相互作用するのは近傍の一部だけであり、行列の大多数の要素はゼロだからです。次数 n の行列を密行列(dense matrix)としてそのまま格納すると、メモリは要素数に比例して増え、n が百万規模になると密表現は現実的な容量を超えます。

疎行列格納形式の目的は単純です。ゼロを一切保存せず、非ゼロ要素の値とその位置(行・列インデックス)だけを保持する。非ゼロ数を nnz(number of non-zeros)と書くと、必要メモリは nnz にほぼ比例し、行列サイズが大きくなっても nnz が緩やかにしか増えない限り扱えます。有限差分法の5点ステンシルなら1行あたりの非ゼロはたかだか5個程度で、行数が増えても1行あたりの非ゼロ数はほぼ一定です。

密行列と疎行列のメモリ比較の目安

次数100万の正方行列を倍精度密行列で持つと、要素数は1兆に達しメモリは8テラバイト級になり非現実的です。同じ行列が1行あたり平均7個の非ゼロしか持たない疎行列なら、非ゼロは700万個程度で済み、値と索引を合わせても数十〜百メガバイト程度に収まります。

COO ── 最も単純な三つ組表現

COO(Coordinate format)は非ゼロ要素を (行番号, 列番号, 値) の三つ組の羅列として持つ形式です。構造がシンプルで、要素の追加や行列の組み立て(アセンブリ)が容易なため、有限要素法で要素ごとの局所行列を積み上げてグローバル行列を作る段階でよく使われます。

COO の内部表現(3x3の例、非ゼロが4個)

  行列:
    [10  0  0]
    [ 0  0 20]
    [30 40  0]

  row  = [0, 1, 2, 2]
  col  = [0, 2, 0, 1]
  val  = [10, 20, 30, 40]

欠点は、行や列を軸にした演算(行ごとの内積など)をしようとすると、目的の行番号を持つ要素を毎回線形探索するか、事前にソートしておく必要があることです。COOは組み立て用の中間形式であり、実際の反復法ソルバではCSRやCSCに変換してから使うのが通例です。

CSR ── 行方向アクセスに最適化された形式

CSR(Compressed Sparse Row)は、行ごとに非ゼロをまとめ、各行の開始位置だけをポインタ配列で持つことで索引の重複を圧縮します。3本の配列で構成されます。

CSR の内部表現(同じ3x3行列)

  values      = [10, 20, 30, 40]        非ゼロの値(行優先順)
  col_index   = [0, 2, 0, 1]            各値の列番号
  row_pointer = [0, 1, 2, 4]            行iの値はvalues[row_pointer[i] : row_pointer[i+1]]

  例: 行2の非ゼロは values[2:4] = [30, 40]、列は col_index[2:4] = [0, 1]

row_pointer は行数+1個の要素しか持たず、COOのように行番号を非ゼロの数だけ重複して持つ必要がありません。これによりCOO比でメモリがさらに削減され、かつ「i行目の非ゼロを取り出す」操作が範囲アクセス1回で完結します。この性質のおかげで、行単位に内積を取る疎行列ベクトル積(SpMV)や、反復法ソルバ(共役勾配法、GMRESなど)で最も多用される形式になっています。

一方でCSRは列方向の抽出、つまり「j列目の非ゼロを全部取り出す」処理には向きません。全行を走査して該当する列番号を探す必要があり、コストが行数に比例してしまいます。

CSC ── 列方向アクセスに最適化された形式

CSC(Compressed Sparse Column)はCSRの行と列の役割を入れ替えた形式で、列ごとに非ゼロをまとめ、各列の開始位置をポインタ配列に持ちます。

CSC の内部表現(同じ3x3行列)

  values      = [10, 30, 40, 20]        非ゼロの値(列優先順)
  row_index   = [0, 2, 2, 1]            各値の行番号
  col_pointer = [0, 2, 3, 4]            列jの値はvalues[col_pointer[j] : col_pointer[j+1]]

CSCは列方向の抽出が高速なため、列指向のアルゴリズムに向きます。代表例がLU分解やコレスキー分解での列単位のピボット処理・列消去です。疎行列を扱う直接法ソルバ(直接法、direct solver)の多くはCSCを内部表現として採用しています。逆にCSCで行方向の抽出をすると、CSRで列方向を抽出するのと同じ非効率が生じます。

形式得意な操作苦手な操作主な用途
COO要素の追加・組み立て行/列単位の一括アクセス行列組み立ての中間表現
CSR行方向の抽出・SpMV列方向の抽出反復法ソルバ(CG, GMRES)
CSC列方向の抽出・列消去行方向の抽出直接法ソルバ(LU, コレスキー)

疎行列ベクトル積(SpMV)の演算特性

反復法ソルバの主要コストはほぼすべてSpMV(y = A·x の計算)に集約されます。CSR形式でのSpMVは次のような単純な二重ループになります。

CSR形式でのSpMV疑似コード

  for i in 0..n-1:
      sum = 0
      for k in row_pointer[i] .. row_pointer[i+1]-1:
          sum += values[k] * x[col_index[k]]
      y[i] = sum

この計算の性能特性を理解する鍵は「演算密度(arithmetic intensity)」、つまり読み込んだデータ1バイトあたり何回の浮動小数点演算をするかです。SpMVでは非ゼロ1個につき乗算1回・加算1回の計2FLOPを行う一方、読み込むデータは値(8バイト)と列索引(4バイト)に加え、x[col_index[k]] という間接参照(インダイレクトアクセス、indirect access)が発生します。

SpMVはほぼ確実にメモリバウンド

密行列積(GEMM)は同じデータを繰り返し再利用でき演算密度を上げやすいのに対し、SpMVは非ゼロ要素をほぼ1回しか使わず再利用がほとんど利きません。演算密度は1バイトあたり0.2〜0.3FLOP程度にとどまり、現代のプロセッサが持つ演算性能(FLOPS)に対してメモリ帯域が著しく不足します。結果としてSpMVの実効性能はキャッシュ・メモリ帯域でほぼ決まり、理論演算性能のごく一部(多くの場合10%未満)しか出ません。

さらに厄介なのが x[col_index[k]] の間接参照です。col_index の値は行列の非ゼロパターンに依存してばらばらであり、アクセスする x の要素はキャッシュライン上で局所性を持ちません。行列の非ゼロパターンが帯(バンド)状に近ければ col_index は近い値が連続し、xへのアクセスも局所的でキャッシュヒット率が上がります。逆に非ゼロが行列全体に散らばっているとxへのアクセスはランダムに近くなり、キャッシュミスが多発します。

この理由から、疎行列ソルバの前処理としてしばしば行・列の並べ替え(リオーダリング、reordering。Cuthill-McKee法などが代表例)を行い、非ゼロパターンをできるだけ対角近くに集めてバンド幅を縮小します。これによりxへのアクセスの局所性が改善し、キャッシュヒット率とSpMV全体のスループットが向上します。ブロック化された非ゼロ構造を持つ行列では、複数の非ゼロをまとめて格納するブロックCSR(BCSR)を使うと、インデックスの再利用が増え間接参照の回数自体を減らせます。

試験・面接で問われる勘所

「SpMVはなぜ理論演算性能を出せないのか」と問われたら、軸は演算密度の低さです。非ゼロ1個あたりの演算が2FLOP程度に対し必要なデータ移動(値・列索引・間接参照によるxの読み込み)が大きく、ルーフラインモデル上でメモリ帯域の天井にすぐ到達するためだと説明できれば十分です。「計算が複雑だから遅い」という説明は誤りで、原因はデータ移動と再利用の乏しさにあります。

まとめ

  • 疎行列格納形式は非ゼロ要素だけを保持し、メモリ使用量を行列サイズのO(n²)からO(nnz)へ落とすための表現である。
  • COOは組み立てに向くが行/列アクセスが遅く、CSRは行方向、CSCは列方向のアクセスに最適化されており、反復法はCSR、直接法はCSCを好んで使う。
  • SpMVは非ゼロあたりの演算量が少なく再利用も乏しいため演算密度が低く、性能はほぼメモリ帯域とキャッシュ効率で決まるメモリバウンドな処理である。
  • 間接参照によるベクトルxへのランダムアクセスがキャッシュミスの主因であり、リオーダリングやブロック化(BCSR)による非ゼロパターンの整理が実効性能を左右する。

HPC・科学技術計算 Article

疎行列の格納形式と演算を実務で読む

TL;DRは入口です。実際に選ぶ・使う段階では、何を解決するか、何と比較するか、導入後にどこで詰まるかまで見る必要があります。

解決すること

HPC

比較で見る軸

難易度: advanced / カテゴリ: HPC・科学技術計算 / タグ数: 5

導入後に効く点

CSR/CSC/COOは非ゼロの並べ方が異なり、行アクセス・列アクセス・構築のしやすさでそれぞれ得意分野が分かれます。

先に潰すリスク

用語だけ覚えても、設計・実装・運用でどこに効くかを確認しないと判断を誤る。

数字・仕様の読み方
難易度
advanced
カテゴリ
HPC・科学技術計算
タグ数
5

判断チェックリスト

  • 自社の用途が「HPC / 数値線形代数」に近いか確認する。
  • 強みである「疎行列はゼロ要素を格納せず、非ゼロ値と位置情報だけを保持することでメモリをO(n²)からO(nnz)へ削減します。」が本当に評価軸になるか確認する。
  • 注意点の「用語だけ覚えても、設計・実装・運用でどこに効くかを確認しないと判断を誤る。」を運用で吸収できるか確認する。
  • 公開値や仕様値は、対象プラン・対象機種・対象リージョンまで確認する。
  • 既存システム、ID、ネットワーク、監視、バックアップとの接続方法を先に洗い出す。
  • 小さく試してから、本番移行、権限設計、障害時手順、コスト監視を決める。

次に確認する観点

HPC数値線形代数疎行列SpMVメモリ帯域HPC数値線形代数疎行列