密度行列と混合状態
状態ベクトルでは書けない「確率的に混ざった量子状態」を密度行列で正確に扱えるようになります。ρの3性質、部分トレース、ブロッホ球内部との対応まで一気に整理できます。
- 1.純粋状態は状態ベクトルで書けるが、古典的な確率で混ざった混合状態は密度演算子 ρ でしか表せない。ρ = Σ pᵢ|ψᵢ⟩⟨ψᵢ| で、対角成分が測定確率、非対角成分がコヒーレンス(位相のそろい)を表す。
- 2.ρ は3条件を満たす。エルミート(ρ=ρ†)、トレース1(Tr ρ=1、確率の総和)、半正定値(固有値≥0)。純粋か混合かは Tr(ρ²) で判定でき、純粋なら Tr(ρ²)=1、混合なら 1 未満になる。
- 3.合成系の一部だけを見るには部分トレースで相手系を消し、縮約密度行列を得る。もつれた純粋状態を部分トレースすると、部分系は混合状態になる。1量子ビットの ρ はブロッホ球の内部の点に対応し、半径 r=1 が純粋、r<1 が混合。
状態ベクトルで書けない状態
ここまでの量子状態は、正規化された状態ベクトル |ψ⟩ で表す純粋状態でした。しかし現実の量子系には、状態ベクトル1本ではどうしても書けない状況が2種類あります。ひとつは古典的な無知——装置が確率 1/2 で |0⟩ を、確率 1/2 で |1⟩ を出すが、どちらが出たか記録していない、という状態。もうひとつは、もつれた合成系の片方だけを見る場合です。これらを統一的に扱う道具が密度演算子(密度行列) ρ で、量子情報・誤り訂正・オープン量子系の記述はすべてこの言語で書かれます。本記事では ρ の定義、満たすべき3性質、部分トレース、そしてブロッホ球内部との対応を、なぜそうなるかまで正確に追います。
純粋状態と混合状態
まず純粋状態を ρ で書き直します。状態 |ψ⟩ の密度演算子は、ケットとブラの外積(射影演算子)で定義します。
純粋状態: ρ = |ψ⟩⟨ψ|
例えば |+⟩ = (|0⟩+|1⟩)/√2 なら、ρ = |+⟩⟨+| は行列表示で次のようになります。
|0⟩ |1⟩
|0⟩ [ 1/2 1/2 ]
|1⟩ [ 1/2 1/2 ]
対角成分 1/2, 1/2 は計算基底での測定確率、非対角成分 1/2 は |0⟩ と |1⟩ の位相がそろっていることを示すコヒーレンス項です。
一方、混合状態は複数の純粋状態 |ψᵢ⟩ が古典確率 pᵢ(pᵢ ≥ 0、Σ pᵢ = 1)で混ざったもので、各射影子の確率加重和で定義します。
混合状態: ρ = Σᵢ pᵢ |ψᵢ⟩⟨ψᵢ|
先の「確率 1/2 で |0⟩、確率 1/2 で |1⟩」を書くと、ρ = (1/2)|0⟩⟨0| + (1/2)|1⟩⟨1| で、行列は次のとおりです。
|0⟩ |1⟩
|0⟩ [ 1/2 0 ]
|1⟩ [ 0 1/2 ]
|+⟩(純粋な重ね合わせ)と「1/2ずつの古典混合」は、計算基底の測定確率(対角成分)はどちらも 1/2:1/2 で一致しますが、まったく異なる状態です。決定的な違いは非対角成分で、|+⟩ は 1/2 を持ち、混合は 0 です。X基底で測ると差が現れ、|+⟩ は確率1で + が出るのに対し、混合は 1/2:1/2 のままです。「対角が同じでも非対角が違えば別の状態」という一点が、コヒーレンスの有無を分けます。
密度演算子ρの3つの性質
任意の正当な ρ は、次の3条件を過不足なく満たします。逆に、この3条件を満たす行列は必ずある物理状態の密度演算子です。
| 性質 | 式 | 物理的意味 |
|---|---|---|
| エルミート性 | ρ = ρ† | 固有値が実数になり、対角成分(確率)が実数として定義できる |
| トレース1 | Tr ρ = 1 | 全結果の測定確率の総和が1(規格化) |
| 半正定値 | ⟨φ|ρ|φ⟩ ≥ 0(全φ) | どの基底で測っても確率が非負になる。固有値がすべて 0 以上 |
エルミート性は ρ = Σ pᵢ|ψᵢ⟩⟨ψᵢ| の各項 |ψᵢ⟩⟨ψᵢ| がエルミートで pᵢ が実数だから従います。トレース1は、外積のトレースが Tr(|ψᵢ⟩⟨ψᵢ|) = ⟨ψᵢ|ψᵢ⟩ = 1 なので Tr ρ = Σ pᵢ = 1 から出ます。半正定値性は任意の |φ⟩ について ⟨φ|ρ|φ⟩ = Σ pᵢ |⟨φ|ψᵢ⟩|² ≥ 0(pᵢ ≥ 0 かつ絶対値2乗が非負)で保証されます。
エルミートかつ半正定値なので、ρ は必ず固有値分解でき、固有値 λₖ は λₖ ≥ 0、Σ λₖ = 1 を満たします。これは固有値自体が確率分布を成すことを意味し、ρ = Σ λₖ|φₖ⟩⟨φₖ|({|φₖ⟩} は直交固有基底)という対角化された混合表現がいつでも取れます。
密度行列の実用上の強みは、測定確率も期待値も ρ の言葉で純粋・混合を区別せず書ける点です。射影 Pₖ の結果確率は P(k) = Tr(Pₖ ρ)、観測量 A の期待値は ⟨A⟩ = Tr(A ρ) です。純粋状態 ρ=|ψ⟩⟨ψ| を代入すれば Tr(A|ψ⟩⟨ψ|) = ⟨ψ|A|ψ⟩ となり、状態ベクトルの公式に一致します。ρ はこれらを混合状態へそのまま拡張した器です。
純度:純粋か混合かを測る
純粋か混合かは、純度(purity) Tr(ρ²) という1つのスカラーで判定できます。
Tr(ρ²) = Σₖ λₖ² (λₖ は ρ の固有値)
純粋状態: Tr(ρ²) = 1
混合状態: Tr(ρ²) < 1
完全混合状態: Tr(ρ²) = 1/d (d 次元での最小値、最も混ざった状態)
理由は固有値分布から明快です。純粋状態は固有値が {1, 0, ..., 0}(1つだけ1、残り0)なので Σ λₖ² = 1。混合状態は確率が複数に分散するため、Σ λₖ ≤ 1 の制約下で Σ λₖ² < 1 になります(確率を分散させると2乗和は必ず小さくなる)。d 次元で最も混ざった完全混合状態 ρ = I/d(I は単位行列)では全固有値が 1/d に等しく、Tr(ρ²) = d·(1/d)² = 1/d が下限です。1量子ビット(d=2)なら純粋で 1、完全混合で 1/2 の範囲を取ります。
部分トレースと縮約状態
合成系 AB の状態 ρ_AB から、片方の部分系 A だけの状態を取り出す操作が部分トレース(partial trace)です。相手系 B の自由度を「足し上げて消す」ことで、A の縮約密度行列(reduced density matrix) ρ_A を得ます。
ρ_A = Tr_B(ρ_AB) = Σⱼ (I_A ⊗ ⟨j|_B) ρ_AB (I_A ⊗ |j⟩_B)
ここで {|j⟩_B} は B の任意の正規直交基底です。ρ_A を使えば、A 側のどんな局所測定・期待値も Tr(A ρ_A) で正しく再現できます。B に何が起きても A の局所統計だけが欲しいとき、必要十分な情報が ρ_A に凝縮される——これが部分トレースの役割です。
決定的な事実は、もつれた純粋状態を部分トレースすると、部分系は混合状態になることです。ベル状態 |Φ⁺⟩ = (|00⟩+|11⟩)/√2 を例にとります。ρ_AB = |Φ⁺⟩⟨Φ⁺| は純粋(Tr(ρ_AB²)=1)ですが、B を部分トレースすると次のようになります。
ρ_A = Tr_B(|Φ⁺⟩⟨Φ⁺|)
= (1/2)|0⟩⟨0| + (1/2)|1⟩⟨1|
= I / 2 (完全混合状態、Tr(ρ_A²) = 1/2)
全体は最大限に純粋な状態なのに、片方だけを見ると完全混合——情報が完全に失われた状態に見えます。この落差こそが「もつれ」の定量的な指標で、ρ_A の混ざり具合(エントロピー)が大きいほど強くもつれています。
ρ_A は A の局所統計を完全に与えますが、そこから元の ρ_AB は復元できません。部分トレースは B との相関(もつれの情報)を捨てるため、非可逆です。異なる合成状態が同じ ρ_A を与えることも普通にあり、局所的に区別がつきません。だからこそ、デコヒーレンスは「量子ビットが環境ともつれ、環境を部分トレースした結果として混合状態に劣化する」過程として厳密に定式化できます。環境という相手系を消した縮約状態が、非対角成分を失っていくのです。
ブロッホ球の内部との対応
1量子ビットの ρ は 2×2 のエルミート行列で、パウリ行列 X, Y, Z と単位行列 I を使って必ず次の形に一意展開できます。3つの実係数 (rₓ, r_y, r_z) がブロッホ・ベクトルです。
ρ = (1/2)( I + rₓ X + r_y Y + r_z Z )
rₓ = Tr(ρ X) = ⟨X⟩, r_y = Tr(ρ Y) = ⟨Y⟩, r_z = Tr(ρ Z) = ⟨Z⟩
r = √(rₓ² + r_y² + r_z²) (ブロッホ・ベクトルの長さ)
トレース1は自動で満たされ(Tr I = 2、パウリ行列はトレース0)、係数がパウリの期待値そのものになる点が要です。半正定値条件は ρ の2固有値 (1 ± r)/2 がともに 0 以上、すなわち r ≤ 1 と等価です。これでブロッホ球の内部(半径1以下の球体)と1量子ビット状態が1対1に対応します。
r = 1 → 純粋状態(球面) Tr(ρ²) = 1
0 < r < 1 → 混合状態(球の内部) Tr(ρ²) < 1
r = 0 → 完全混合状態 I/2(中心) Tr(ρ²) = 1/2
純度とブロッホ半径の関係は Tr(ρ²) = (1 + r²)/2 という1本の式で結ばれ、球面(r=1)で純度1、中心(r=0)で純度 1/2 を返します。純粋状態だけなら球「面」で足りるが、ノイズや部分トレースで生じる混合状態まで含めるには球「体」全体が要る——密度行列は、この球の内部を過不足なく記述するために必要な言語だと言えます。デコヒーレンスは幾何的には、ブロッホ・ベクトルが中心へ縮んでいく(非対角成分=コヒーレンスが失われる)過程に対応します。
- 定義:純粋
ρ=|ψ⟩⟨ψ|、混合ρ=Σ pᵢ|ψᵢ⟩⟨ψᵢ|。対角=測定確率、非対角=コヒーレンス。 - 3性質:エルミート
ρ=ρ†、トレース1Tr ρ=1、半正定値(固有値 ≥ 0)。逆にこの3条件を満たせば正当な状態。 - 純度:
Tr(ρ²)で判定。純粋 = 1、混合 < 1、完全混合 = 1/d。重ね合わせ|+⟩と 1/2混合を非対角で区別できること。 - 部分トレース:
ρ_A = Tr_B(ρ_AB)。もつれた純粋状態の縮約は混合になる(ベル状態 →I/2)。非可逆。 - ブロッホ対応:
ρ = (I + r·σ)/2、半正定値 ⇔r ≤ 1。r=1純粋(球面)、r<1混合(内部)、r=0完全混合(中心)。純度(1+r²)/2。
まとめ
密度演算子 ρ は、状態ベクトルでは書けない「古典確率で混ざった状態」と「もつれた系の部分」を統一的に記述する道具です。核心は4点。(1) 純粋は |ψ⟩⟨ψ|、混合は Σ pᵢ|ψᵢ⟩⟨ψᵢ| で、対角成分が測定確率、非対角成分がコヒーレンスを表す。(2) 正当な ρ はエルミート・トレース1・半正定値の3条件で特徴づけられ、純度 Tr(ρ²) が純粋(=1)か混合(<1)かを分ける。(3) 部分トレース Tr_B で相手系を消すと縮約状態が得られ、もつれた純粋状態の部分系は混合になる。(4) 1量子ビットの ρ はブロッホ・ベクトル r ≤ 1 でパラメータ化され、球面が純粋・内部が混合・中心が完全混合に対応する。純粋状態の理論を実機のノイズやオープン系へ橋渡しするのが、この密度行列の言語です。
量子コンピューティング Article
密度行列と混合状態を実務で読む
TL;DRは入口です。実際に選ぶ・使う段階では、何を解決するか、何と比較するか、導入後にどこで詰まるかまで見る必要があります。
解決すること
量子コンピュータ
比較で見る軸
難易度: advanced / カテゴリ: 量子コンピューティング / タグ数: 5
導入後に効く点
ρ は3条件を満たす。エルミート(ρ=ρ†)、トレース1(Tr ρ=1、確率の総和)、半正定値(固有値≥0)。純粋か混合かは Tr(ρ²) で判定でき、純粋なら Tr(ρ²)=1、混合なら 1 未満になる。
先に潰すリスク
用語だけ覚えても、設計・実装・運用でどこに効くかを確認しないと判断を誤る。
- 難易度
- advanced
- カテゴリ
- 量子コンピューティング
- タグ数
- 5
判断チェックリスト
- 自社の用途が「量子コンピュータ / 密度行列」に近いか確認する。
- 強みである「純粋状態は状態ベクトルで書けるが、古典的な確率で混ざった混合状態は密度演算子 ρ でしか表せない。ρ = Σ pᵢ|ψᵢ⟩⟨ψᵢ| で、対角成分が測定確率、非対角成分がコヒーレンス(位相のそろい)を表す。」が本当に評価軸になるか確認する。
- 注意点の「用語だけ覚えても、設計・実装・運用でどこに効くかを確認しないと判断を誤る。」を運用で吸収できるか確認する。
- 公開値や仕様値は、対象プラン・対象機種・対象リージョンまで確認する。
- 既存システム、ID、ネットワーク、監視、バックアップとの接続方法を先に洗い出す。
- 小さく試してから、本番移行、権限設計、障害時手順、コスト監視を決める。